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人生観

ツイッターで得られる2つの快感と危険性

Twitterの快感と危険性について

かれこれ15年くらい、ウェブの世界を徘徊しながら人間観察をしている。

隙あればウェブの世界に逃げ込むぼくは、また今年もなにをしたらいいのか、よくわからなくなり、なんとなくこのブログを作り、ツイッターという世界に逃げ込んできた。最近になって、他者との交流を意識しておこなえるようになった。

ツイッターの世界の変化

ツイッターにはあいかわらず輝いている人たちがいた。数年前は、ツイッターツールで自動フォロー、自動DM、自動ツイートが半端なく、金と豪華な料理と海外旅行の画像しか貼らないような人たちばかりの気持ちの悪い世界だったせいで、吐き気だけじゃなくてリアルに吐いてやめたツイッター。

社会的にはなにも変えていないし、なにも残していないのに、それっぽい言葉を書き連ねるだけで、これほどの人が影響されるのものか、と気持ち悪くなったのだ。それは、幼い頃、こちらの意思を無視して、執拗にどこかへ連れて行こうとする某団体と共通する世界でもあった。

リアルが見える、温もりのある、行動している起業家、研究者、ビジネスマンが増えた

数年ぶりに勇気をだして戻ってきてみると、現実的に社会を変えたいというアツイ想いをもってツイッターを活用され、行動されている人たちによって、現実的なサービスや商品が形になっている現状が確認できたことで、だいぶ落ち着くことができた。ツイッターの世界もいくらか雰囲気も落ち着いたのだ、と。

良くも悪くも、あの頃と変わらない人たちもいたことも安心感があったし、自分の経験値もすこし変わってきたせいか、ツイートに共感することも多くなった。

はじめは他者のツイートや流れるタイムラインを眺めていただけだった。しかし、おもわず「フフッ……おもろいやん」と感じたツイート、「お、わかる、そうですよね!うん、うん、そう思います!」と共感したツイートを見ると、あれだけためらっていた「ハートマーク」をタップするようになった。

ツイッターの世界の変化と時間経過が自分を変える

さらには、他者のツイートにコメントするようになったり、コメントを付けてツイートするようになった。タイムラインでただ眺めていただけの憧れの人たちは、それに対して好意的な反応を返してくれた。

それがまたうれしかった。

これがさらにぼくの行動をエスカレートさせたのだろう。違う見解を載せたツイートをしてみたり、時には反論ともとれるような言葉を載っけてみたりするようになった。

発信する人によって、賛否に偏りが生じているように感じて、理由のわからない偏りが苦手なぼくは、いろいろな意見も必要だろうなどという「正義感」をもっていたように思う。今にして思えば、「自己満足と同義」の正義感だったような気もする。

ツイッターを始めた頃の自分とくらべると「ずいぶんと偉そうになったものだ」とすこし自分の言動を省みている自分がいるのは事実だ。

よく言えば「成長」と言えるのかもしれないが、残念ながらぼくはそこまでポジティブな人間ではない。むしろ、かなりネガティブだ。

善悪の判断、自分の価値観はゆずれない性格なのに、ポジティブな言葉にはすぐに左右され翻弄されてしまうような「依存傾向」もある、という面倒な人間性であることも知っている。

だから、ここらへんでひとつ冷静になって、ツイッター利用について整理しておく必要があるだろうと思ったのだ。

ツイッターで感じた二つの快感

「ツイ廃(ツイッター廃人)」という言葉があるが、その理由がわかってきたような気がする。

2018年のツイッターの世界は、各方面で「ツイッターバブル」と言われるくらい盛り上がっているようだ。多様性、信用経済、コミュニティといった言葉を多く見るようになった。生きづらさを感じているぼくにとって、どれも共感できる言葉だった。

正確に言えば、どの言葉もあの頃から、その重要性を説き実践している人はいたのだけれども、社会的信用のある人たちが言うようになり、たくさんの人が実践されるようになって「ブーム」みたいな状態になっているようす。

個人の意見発信と行動力が重要な社会によって、楽しく生きられるようになる人は増えると思う。その反面、かえって生きづらさに拍車がかかる人もいるのだろうとも感じている。

それは、ツイッターという世界に「ただ居心地の良さだけを見つけた人」のことだ。ぼくもおそらくそのタイプの人間なのだとおもう。

快感と依存性が強いのである。

同じ価値観や経験をもつ人とのなぞの仲間意識

まず、ツイッターを含めウェブの世界では、同じ悩みを抱えていたり、同じような苦しい経験をしている人たちがすぐそこにいる。

その人たちのツイートには、共感できる内容が多く、ものすごい安堵感がある。

「あ、自分だけじゃないんだ、ひとりじゃないんだ」という安堵感だ。「自分が認められた」という感覚だろうか。「自分のやっていること、感じていることって、間違ってないんだ」という感覚だろうか。

この感覚は、特に、生きづらさを感じてきた人、よく言われる「自己肯定感の低い人」にとっては中毒性がありすぎる。

生きづらさを感じている人は、ストレスを発散する方法がわからないがために生きづらさを感じているとも言えるので、ツイッターに依存する気持ち、「ツイッター廃人」になってしまう理由もわかるのだ。

絶望するほどの孤独を味わってきた人にとって、強烈すぎるほどの「仲間意識」という圧倒的な快感は依存性がつよい。

社会正義や法律、モラルに反するモノに依存するよりは、いくらかマシなような気もする。そうしたくてやっている人は問題ない。問題は、生活に余裕もないのに、家族やこどもだっているのに、「なにをしたらいいのかわからない」とか言っちゃう自分という人間だ。

仲間は大切だ。だが、事実として、ただ考えたり感じたりしているだけで、なにも行動していない。それが問題なのだ。

なりたい自分の理想をいくヒーローの存在

個人的な問題なのかもしれないが、自分は興味の幅が広すぎる。政治、経済、経営、歴史、文化、宗教、福祉、食、スポーツ、音楽、エンタメ、ファッション、ガジェット...とにかく、なんでも知りたがりの耳年増なのだ。

基本的に「どんな人からでも学ぶことがある」というスタンスなので、尊敬のまなざしをもってその動向が気になってしまうのです。

問題は「今日は広いが知識が浅いこと」。そして、ADHDという気質のせいか、記憶力が低下しているせいか、記憶があいまいでごっちゃになっていることも多い。その上、知っている知識をみせては、自分を大きく「できる人間に見せよう」とするところがあり、本当に自分という人間はたちが悪いと反省している。

一つでも自慢できるモノがあるのかときかれても、回答に困る。自慢できるモノなんてないから。

しいて言えば、さまざまな世代の人の話題についていけることなのだろうが、実際はそんな人と話す機会もなく、あったところで自己満足におわるので実質的には無力だ。あまりにも無力。

興味の幅が広すぎて、しかも尊敬という眼差しで見てしまうため、ツイッター上にいる「なりたい自分の理想の人物像」とすぐに出会ってしまう。なりたかった自分、その道をひた走るヒーローとの距離があまりにも近いのだ。

距離の近さがなぜ問題かといえば、そのヒーローがまるで自分の分身のように思えてきてしまうところがあるからだ。

ヒーローは着実に成果を残しながら、共感できることをつぶやいたり、時には社会に反抗したり、だれかと討論したりしながら、ほかのだれかの心を救ったりしている。

かっこいい。

まるで自分がそれをやっているかのような錯覚におちいりそうになるけれど、ふと現実の自分にもどれば、なにもしてい自分に気がつき絶望する。

これはいかん。

快感と危険性

人間はあまりにも弱くてもろい。ぼくもそうだ。

いまも昔もそうだけれど、ウェブは弱い人間の避難場所だと思っている。

良くも悪くも、弱い人たちだから、法律やモラルに触れるようなことをやる人もいるし、またそれに振り回される人もいる。

どちらにも強い快感があり、強い快感は依存性をもたらす。

快感の元が取り上げられそうになれば、攻撃的になることもあり、社会に大きな影響をあたえるようなことをしたりもする。

もとをたどれば、どちらも弱い人間だからそうなるのだ。

自分を律することのできる強い人間は、ウェブの活用してさらに大きなことを成し遂げることだろう。

そのうらで、弱い人間はもっと依存することにならないか。社会のみならず、ウェブという世界においても、さらにすみに追いやられはしないかと懸念している。

いずれはどこかで本人が気づいて、考えや行動を改めなければいけないのだろうが、それができずに弱いままの人たち。その人たちの声は、この世界ではどう処理されるのだろうか?という想いに駆られながら、文章を書いている。

「モラル・ハラスメント」さん、「みなきんぐ」さんの「攻撃者」というツイートを見て、行動できない弱者として、どうすればいいのか、と。ぼんやり考えてみました。

だれかの役に立てたら幸いです。

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