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人生観

「これからの時代は」という言葉とつかう人の無責任さについて

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「これらからの時代は」という言葉をつかう人が苦手だ。いや、嫌いといっていいかもしれない。この言葉には「その人の無責任さ」と「他者に与える影響における不気味さ」を感じているからだ。

これからの時代がどうなっていくか?

たしかに、長い歴史をふりかえってみたり、あるいは新しいテクノロジー、世界に大きな影響を与える大企業の動向なんかを見ていけば、たしかに予測はできるのかもしれない。

ただ「これからの時代は、これこれ、こうなっていくから、こういう風に行動しましょう」という話となれば、話はまたちがう色合いを帯びてくる。

いや、そうじゃない。

時代というのは、時代というものが勝手にそうなっていくわけじゃなく、その時代を生きる人たちが、なにを思い、どのように行動するからによって形成されていくものであるはずだ。

これからの時代のあり方は自分たちでつくっていくもの

これからの時代がどうなるのかは、一人一人の考え方や行動によって変わる。だから、誰にもわからないはずなのだ。であるにも関わらず「これらかの時代は○○だから~●●していくべき」という言葉には疑問を抱かずにはいられないし、その人に対してはある種の不気味さを感じてしまう。

なぜなら、そこには相手のためではなく、不安をあおりながら「それを言う人にとって都合の良い未来」が描かれている場合が多いからだ。「不安をあおる」という手法は、人の意思決定に大きく左右する。そのため、倫理や道徳の範疇を超えた詐欺行為にもよく使われているのは承知しておく必要があるだろう。

人が社会を形成する以上、社会にとって都合の良い未来をめざすのが、人としての美しさであると思うのだ。

時代は自分たちの手で作っていこう

そういった積極的な姿勢やその人の意思がみえてこない言動が、日常的なものとして成立してしまう世界には夢も希望もない。

「時代の流れはとめられない」という無責任さ

「これからの時代は~」という言葉に違和感を感じる。なぜなら、そこには「その人の意思」が感じられないから、ということは先にも述べた通りだ。社会の利益ではなく、個人の利益のための発言である場合が多いからだ。

「時代」というものが勝手にそうなっていくものだから、たとえそれが人として美しくなかったとしても「先回りしてその恩恵にあずかろう」という不気味さを感じてしまう。この言葉をいう人にかぎって「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」などと、どこかで聞きかじったよう言葉をつかったりするものだから、よけいに不気味なのだ。

「これからの時代」というこの言葉に、ぼくはその人の「無責任な人間性」を感じてしまうので、そういう人にはならないようにしたいだけだ。

さいごに

これからの時代がどうなるか?

そんなことは誰にもわかりません。ただ、いまこの時代を生きているぼくたちが、どんな時代にしていきたいか?どんな社会をのぞむのか?

そのために、どんな想いを発信していけばいいのか?どんな行動をとっていけばいいのか?

ひとりひとりの影響力は小さいかもしれませんが、だからといって無責任な発言や行動をして良いわけではないはずだ。ましてやお金や権力をもつ人たちの言う「これからの時代」が、自分の望む世界でないのならば自分の意見を持ち、言葉にし、行動していく、という姿勢を失いたくないものだ。

人の温もりや優しさの感じられる社会になってほしいと願うぼくは、生きづらさを感じているこの社会を「これからの時代は~」という言葉であきらめたくはない。

そんなことを思う今日この頃。

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